そうです。
留守番です。
ロバートさん来てるけど。
江戸が嫌い宣言中なので、行く気もないんだけどね
昨日、長崎のYS AUTOの道脇さんから頂き物
萌えピン
入籍記念にとわざわざ持ってきてくれた
まことにありがたいです
これが人間しかできないことなんですよね
大事にしたい「人情」ってやつ
そういうことで、みんなもっとください
ボクは強欲です。
最近、秋の夜長
日が暮れてから長くて長くて、しょ~~もないから本読んでるんですけど
久しぶりに、阿刀田 高の本をよんでみた
村上 龍が好きなのは知っての通りで、そん次に好きなのが、この阿刀田 高
ブラックユーモアの師匠
いうなれば、アメリカンジョークってやつ
世の中を斜め見の常習犯
「まじめ半分」って文庫なんですけど、ブックオフいきゃ100円で買えるから読んでみなっせ
短編の寄せ集めだから、本読まない人でも読める、10分ありゃ1ストーリー読めるから
その中の、「プールサイドで」って一節があるんですけど
これはブラックユーモアじゃないんですが、この人の根本にある「REBEL」が垣間見れる一節
ちょっとそれをココに記す
昭和59年発行「まじめ半分」より
プールサイドで
散歩の道すじに小学校がある。
夏が近づくと、学校のプールで水泳教室が始まる。
プールサイドに同じ海水着の子供たちが、紺色のダンゴでも並べたように勢ぞろいしている姿が植木の隙間から見える。
今では、ほとんどどこの小学校へ行ってもプールがあるようだ。
しかるべき法規によってプールの設置が規定されてるに違いない。
教科の中にも水泳教育が正式に取り入れられているので、たいていの小学校を卒業するまでには泳げるようになる。
水泳はすこぶる健康的なスポーツだから
発育盛りの子供たちにこれを教えるのは体位向上のためにもおおいに役立つに違いない。
だが・・・・・私はふと考える
私自身は川で水泳ぎを覚えた。海で覚えた人も少なくあるまい。
川で水泳を覚えた経験から言えば、これはプールほど楽ではない。浅いと思っていたら急に深くなる。水の流れも定まりなく、油断をしていると本流のほうに引き込まれる。
「あっ」っと思ったとたん、流れに巻き込まれて、ずっと下流まで流されていったこともあった。溺れかけても監視員がとんで来てくれるわけでもない。自力でなんとか苦境を脱するよりほかにない。
実際の話は、私は・・・
「あぁこれでオレの人生もおしまいか、お父さん、お母さん、さようなら」
そう思いながら、大川の真っ只中を浮いていたのを、今でも鮮明に思い出すことが出来る。
海では一度沖まで泳いでいって、途中で片足が引きつれ、完全に動かなくなったことがあった。
岸までの距離は1kmは近い。
一瞬真っ青になったが、その頃はある程度まで泳力に自信があった。
「まぁ慌てることはない」
全身の力を抜くと、体が水の中に沈んだ。沈みながら、動かなくなった足の筋肉をマッサージする。
息が苦しくなったら、手だけをかいて、水の上に顔を出す。それからまた沈む。
こんなことを10回ほど繰り返しているうちに足の動きが戻った。
あとはもう一度痙攣が起きないよう、ゆっくりゆっくり岸まで泳いだ。
海や川で会得する水泳には、たしかにプールで覚える水泳とは一味ちがったところがあったような気がする。
その違いを吟味してみると・・・・・
プールで覚えるのは水泳だけなのに対して、海や川で習うときには、同時に自然と対処するすべを覚える。
自然はいつもどこに落し穴を作っているかわからない。
油断をしていれば、こっちがやられてしまう。泳ぎを覚えてるうちに、いつの間にか生きた注意力が身に付く。
もし万が一水に巻き込まれたら、その時はどうしたらいいか。
まず、なによりもあわてないこと。
状況をよく判断して冷静に行動すれば、なんとか道は開けるものだ。
この判断力も人生で生き抜くうえで役に立つ。
こういう具合だから、水泳を覚えたときには、ただ単に水に泳ぐ技術をつけるのではなく
自分を取り囲む環境に対する配慮や注意力が身に付く。
自然が私たちに教えてくれるものは、けっして少なくない。
その点プールは、ただの“水泳教室”でしかない。
もちろん海や川で覚えることには危険がともなう。
一年に一度ぐらいは、自然との闘いに敗れた水死人が、あわれな姿で浮かんだものだった。
その悲しい姿を見るにつけても
「オレも気をつけなきゃな・・・・・」
と、なにより厳しい、生きた忠告を受けたものだった。
水泳のように、下手をすれば命にかかわるようなスポーツを安全に教えるとなれば学校プールで
監視員がつき、深さも急に深くなったりしないほうがいいのだろうが
それだけでは、かつて私たちが海や川で覚えたような、かけがえのないものを会得できない。
これは本当だ。
よろずお膳立てが整っているところで、「さあ、どうぞ」と言われて覚えることなど、たかがしれている。
水泳はいたし方ないないけれど、もっとひどいのはプラ・モデル。
ただ糊づけをするだけでは、たとえどんなに高級なものが出来たとしても、なにが工作なのだろう。
苦心して木を切り、板を削り、穴をうがち・・・・そういうプロセスがなくては
ただ、ただ、結果としての完成品がえられるだけ。
結果以外にその道中で習得するもののほうが、はるかに重要なのではあるまいか。
プールの子どもたちを見ながら、そんなことを考えた。